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「喪失と責任の関係」

先日、キャラメルボックスが公演する「カレッジ・オブ・ザ・ウインド」を観に大阪のシアターBRAVAまで出かけた。予想以上にアップテンポで進むその劇の内容は、家族の在り方と男女間の在り方、つまり愛の在り方について考えさせられる内容となっていた。

劇中では、家族が一つになることの象徴を年に一度の家族旅行という形態で表していた。
普段はバラバラの家族が年に一度だけスケジュールを合わせて一緒に行動する。
個の集合体である家族がどうお互いを想い合うか?集合体を考える時、常に個自身が自分の人生を充実させる努力をしているかが問われるのではないだろうか?
そして劇中では男女の愛の在り方を家族の在り方にからめて展開して行く。

俺自身、誰もが生まれながらに手に握りしめているはずの家族というもの。そして成長する過程で手を握り合っていく友というもの。そうした関係のいくつかを自分が信じ、目指すものを掴むために失って来た。
いや手放したという方が正確かもしれない。自ら手を離したもの。引きちぎられるように失くしたもの。どちらにしろ、心には大きな喪失感を残す。

誰もが何かを失い生きている。誰もが何かを得ようと生きている。俺はそうしたすべては必然だと考えている。俺は俺の手から離してしまったすべてに、納得してもらえるだけの歩みを残しているだろうか?いや残さねばならない。それだけの責任と明確な意思がなければ意志を持って行った喪失はその役目を完了しないことになる。

意志持って行った喪失。それに応えていくべき生き様は、結果を伴った形で示さねばならない。失うたびに背負うものは大きくなる。一見矛盾する喪失と責任の関係、この関係を心に刻んで目指す目的地に向かって歩いてゆかなければならない。
2007.8.21

「変化と記憶」

京都新聞に下鴨神社の「みたらし祭り」の様子が紹介されていた。
神社の中の浅い池をはだしで歩くことで無病息災を祈願するお祭りだ。20代前半まで、下鴨神社の近くに住んでいたので、子供のころから何度も足を運んだことのあるお祭りだ。池の上にたくさん供えられた灯明のぼんやりといた明りになんとなく心華やいだ記憶がある。最近は下鴨神社に立ち寄ることもなくなったが、他にも葵祭などで境内に屋台が出ることが楽しみな場所だった。あの辺りも少し変わっただろうか?

変ったといえば、少し前の朝日新聞に携帯電話の利用についてこう書かれていた。
“ケータイはもう「電話」ではない?”
携帯電話のヘビーユーザーの4割が携帯をほとんど通話に使っていないということらしい。一人当たりの利用料金も減少する一方で、一日の通話回数は、「ほとんど利用しない」「3回未満」の両者を合わせると約8割が携帯を電話としては活用していないという格好だ。
「もはや「電話」サービスには頼れない、新しいビジネスモデルの開発が急務だ。」( NTT ドコモ)と言わせるまでに変化している。
携帯電話の前身である自動車電話をいち早く自分の車につけた時は、とてもうれしかった記憶がある。しかし、あまりに誰も自動車電話をつけていなかったため、誰も連絡してこないのがもどかしかった。そのころは電話でメールをすることは誰も予想していなかっただろう。世の中は常に駆け足で変化して行く。

そして自動車電話を取り付けた「車」を乗り換えるサイクルも大きく変化している。
普通車と小型車を合わせた平均使用年数は06年3月時点で11,1年(自動車検査登録情報協会調べ、軽自動車除く)ということだ。使用年数が伸びるということは買い替えが鈍るということになる。バブル期に一気に縮んだ使用年数は、近年、人間の寿命なみに伸び続けている。

今をときめく産業である携帯電話の事業も自動車産業も、今や変化への対応速度が生命線となって来ている。
年々加速度を上げる時代の変化についていけるか?新聞紙面からの問いかけに自問自答する日々である。
変化を追いかけ、変化を作りだすことを羨望する俺の中にも、少年の頃、足をつけに行った「みたらし祭り」の思い出は変わらぬままに存在する。しかし、思い出が記憶の以上の重要性を持ったとき、進化への歩みが速度を落としてしまう。人は過去に生きていてはならない・・・。

2007.8.2

「言葉」

たまたま、『論語』のある一節をネットで検索していたときである。誰かのブログが一件だけヒットした。その人のプロフィールの一部には『パンセ』(パスカル)からこんな文章が引用されていた。前後は省くが「・・・・そうだとすれば、われわれのあらゆる尊厳は、思考の内にある。・・・・」つまり、人間の尊厳は顔でも体でも、社会的地位でもなく、その思考そのものによるのである。

そして、その思考は、パスカルに限らず多くの人が残した言葉や文章により、さらに磨かれ輝きだす。そうした言葉は、哲学書の中だけではなく、歌の歌詞の中に在るときもあれば、マンガの中のセリフのときもある。小説の中に在るときもあれば、映画の中に在るときもある。
どこかで偶然に一瞬だけ触れた言葉に、人は動かされて人生が開けるときがある。いや開けるという言い方は、あまりに期待を込め過ぎた言い方かもしれない。衝動に駆られるという方が正確だろうか。どちらにしろ、それだけ言葉には大きな力が宿っている。

俺自身、そうした言葉に背中を押されて生きてきた。
苦しい時、辛いときほど、不特定多数に向けて語られたそれらの言葉は、自分一人のために向けられた言葉のように、俺を奮い立たせてくれた。あの言葉と、あの本と、またはあの歌と出合わなければ、また違った人生があったかもしれない・・・。

大げさではなく、そういった言葉との出会いを経験した人もいるはずだ。
俺もコラムを書き、本を出版する。
それは、多くの人に向けて言葉を発する機会があるということだ。その稚拙な言葉の羅列に、誰かの人生が動き出すほどのエネルギーが込められるかはわからない。しかし、正しいとか、正しくないとかではなく、この地球上のどこかの誰かたった一人の人間にでも「何かを感じた。」という人がいれば、文章を書くという大業に関わった意味があるかもしれない。そう自分に言い聞かせて深夜のパソコンに向かっている・・・。

2007.7.17

「区別・識別」

最近「格差社会」という言葉をよく耳にする。
資本主義というものは、本来結果の平等を目的としない社会のはずである。つまり資本主義の世界では格差は必ず生まれることになる。ただ「その下限をどうするか?」ということには政治的なアプローチが介入する問題となる。
結果の不平等は当たり前として、チャンスの不平等が本当の格差を生みだす。
今の日本には結果の平等を求め、チャンスの不平等を感じない人が多すぎるように感じる。

そして格差といえば一般には、経済的格差を指すことが多いが、経済的格差が教育を受ける格差を生み、それがまた経済的格差を生みだすという連鎖が起こっていると言われている。しかし、この数年でもっと身近なネット検索が上手くできるか?出来ないか?というだけでも知識の格差が生まれる時代となっている。知識は区別、識別、そして予測という行為には重要なファクターとなる。

つまり、インターネットの普及で以前より存在する経済的格差に加えて、一般庶民の間にも情報取得力に格差が出だしているということだ。
例えば、この先、保険料の窓口負担や、社会保障費が増え、生活習慣が病人を作るということを全く予想しない人が、不健康な生活習慣を送り、15年後に、メタボリック症候群となり、薬を飲みながら生活して最後に動脈硬化が原因で脳血栓が発症する人と、前記のことを予想して健康を心がけて生活してきた人とでは、体の状態だけではなく貯蓄も所得も有効に使える時間も違ってくる筈だ。
貧困の文化が貧困を生むように、不健康な生活習慣が新たな患者を作り出す。
健康的な生活とは何か?なぜこの運動が必要か?運動法の違いは?知らないことは区別ができず、良い悪いすら分らない。まして知らない世界を正確に予測することは困難だ。

これからは、新たに、区別、識別、予測する力の差が、人生の中で大きなリスクを背負う確率を変えるだろう。情報の取得力が原因となる区別・識別・予測力格差がすでに出来上がりつつある。
2007.7.3

「Why」

少し前の日経新聞夕刊に、登山についてのコラムが載っていた。
その記事によるとチョモランマ登頂という世界では、人が横で死んで行っても助けることすらできない厳しい状況があるという。特に下山は死と隣り合わせで、筆者自身が酸欠による微かな意識のなか、以前に亡くなった他の登山家たちの屍の上を歩いて下山して行く情景が描かれていた。そこでは、生に対する気持ちの強さのみが、自分の命を何とか守りきる生命線となるという極限の状況が綴られていた。
しかし、この状況はチョモランマだけのものではない筈だ。例えば俺の居た世界である競輪でも本来究極の勝負とは、そこに散っていく他の選手を踏み越えて勝利を目指す覚悟が必要となる。甘ちょろい仲間意識を持っていては、一生涯本物の勝負だけが与える至福の緊迫感は味わうことは出来ない。
もちろん、ビジネスの世界でも、日常のなかにチョモランマの世界と同じ状況は存在する。ビジネスマンがにこやかに交わす笑顔の裏で、必死に生き残りをかけて企業間の戦いが行われている。競輪の落車や、格闘技の試合のように、生身の体に傷が付き、鮮血に染まることが無いから、感覚として分かりにくいだけである。
しかし、そこ(ビジネスの世界)で負う傷は、生身の傷以上にダメージは深刻だ。判子一つが、本人が死んだあとでも威力を発揮する。見方によれば命より重いものが、その世界には存在すると言えるだろう。
そして、この世界は、体重別でもなければ、脚力によるクラス分けもない。企業規模でいえば、生まれたばかりの赤ん坊に対して、プロレスラーが大群で喧嘩を売っている以上の体力差がある。それでも同じ土俵なら勝敗を競わなければならない。一瞬先が見えない愚か者。それこそが企業家かも知れない。しかし、一瞬先が読めないそんな戦いに挑む人もいる。決死の登山をなぜか敢行する登山家がいるように・・・。

2007.6.18

「ルールとは?」

離婚して300日以内は「前夫の子」とする民法がある。ニュースによるとその法律が原因で、今の夫との間の子に戸籍がないという事態に直面する女性が、毎年3500人以上居るということだ。
この法律自体は、明治時代に作られ、現代の医学で可能になった極端な早産などは、完全に想定外となっている。確かに離婚にも色々なケースがあり、救済に対して明確な線引きをすることが簡単なわけではないことは想像できる。しかし、現在の法律では、前の夫が裁判で自分の子ではないと証言するか、今の夫に認知を求めるという法的手続きが必要となる。
しかし、東京の足立区では、このようなケースでの出生届は不受理としたが、住民票を作成し、乳幼児健診などの行政サービスを受けられるようにしたというニュースもある。
もともと法律とは、人々が暮らしやすくするために作られたものである。神様が作って人間に与えたものではない。当然、法律を作ったのは人間である。その起源は、市民が、王から自分たちの権利を守るために、作ったのが法律の始まりと理解している。
日本人は、どうもこの点に対して間違った感覚を持っていると思われる。
法律は、お上のものではなく自分たちの生活を守るためのものとして利用するべきものである。おかしいと思えば変えればいいもので、それに従わされるという代物ではない。
時代の中で、現実に即したものに、あらゆるルールを見直すという考え方は必要だ。
人間は、万物すべての真理を知っているわけではない。その人間が作ったルールには必ず不備もあるものなのだ。より適正なものに変える。毎年国会で、法律を決めている。それは本当に市民にとって適正な方向へ変わっているか?
もっと多くの人が、知的好奇心を持つべき問題である。

 

2007.3.16

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1959年5月20日 京都市生まれ 48歳 
松本 整 (まつもと ひとし)
1980年4月 門司競輪場でデビュー(主な記録)
特別競輪(G1)獲得最年長記録 第45回オールスター(43歳)
ふるさとダービー4連続優勝 95年 富山 和歌山・96年 富山 和歌山 
第35回 オールスター競輪優勝(G1)
第11回 寛仁親王牌 世界戦記念トーナメント優勝(G1)
第55回 高松宮記念杯競輪優勝(G1)獲得最年長記録更新(45歳)
★第55回高松宮記念杯競輪優勝(G1)  レース終了後に引退を発表。
現在の競輪界に一石を投じる形での引退に大きな衝撃が走った。

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